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中西明と行くイタリア歌と交流の旅 フィレンツェ・ローマ・ナポリ 2004年1月5日(月)~12日(月・祭)

中西明と行くイタリア 歌と交流の旅 フィレンツエ・ナポリ・ローマ

2004年1月5日(月)~12日(月)

中西明 岡田桃子 同行

●歌声喫茶ともしびから歌手で俳優の中西明とアコーディオン伴奏者、岡田桃子が同行、歌声で道中も楽しく進みます。
●カンツオーネの本場ナポリでは現地の方々と夕食をとりながら、カンツオーネやナポリ民謡を歌い楽しく交流を深めます。
●フィレンツェ近郊の 「人民の家(カーサ・デル・ポポロ)」 を訪れてお手製の夕食をいただきながら、明るいイタリアの市民と交流します。
●ヴェスビオス火山の噴火で一夜にして消えてしまった街、ポンペイの遺跡「麗しのソレント」で有名な美しいナポリ湾の街ソレントへ立ち寄るチャンスもあります。

イタリア日記    by 中西 明

1月5日(月) フィレンツェへ
午前11時成田空港第1エアターミナル「N7号室」に、参加者17名と中西明、伴奏の岡田桃子、それに同行添乗員の出島邦宏氏、20名の総勢が初めて顔を合わせ、いよいよここからイタリアへの旅が始まります。
旅慣れた人もそうでない人も、現地土産品宅配のパンフに目を通しながら、これからの数日に思いをはせ、胸をふくらませています。実はこれが、旅全体の中でいちばん夢の広がる時間なのかもしれません。
ともしび合唱団の飯塚美智子さんなど、昨年のハンガリーツアーに参加された方々は、旧知の親友同士のように挨拶を交わされています。
旅程の確認や注意事項の説明があった後、参加者の自己紹介がひとしきりあり、トイレ休憩の後短時間「さらば恋人よ」の練習をしました。イタリア語で「ベッラ・チャオ」というこの曲は第2時大戦の末期、ファシズムに反対するレジスタンス運動の闘争歌として歌われ、今日でも広くイタリア人に愛唱されているとのこと。
イタリア語で1コーラスだけ練習しましたが、この曲はこのツアー全体のテーマ曲として愛唱されることになります。

出国手続きを経て免税店の居並ぶ搭乗ロビーにはいると、何か日本時間と違う時の流れが始まるような感じがします。用もないのに誰かに電話がしたくなったり、昼間からビールが飲みたくなったり、つまりは気分が「ハイ」になっているだけかもしれませんが。
ホテル到着が現地時間の夜10時頃となるので、寝酒に吟醸酒を一本買い、ぶらぶらと免税店をのぞいているうちに定刻の午後0時40分、搭乗開始となりました。
12時間あまりのフライト中はもっぱら読書と睡眠ですごし、予定より一時間早い午後5時頃、ミラノ・マルペンサ国際空港に降り立ちました。
イタリアの金属探知ゲートはとても厳重でした。イラクとの関連で一時的にそうなのかもしれませんが、コートを脱ぎ、ネックレスをはずし、時計も財布も取り出して、それでも「ピンポン」。係員の指示でベルトをはずしてやっと通る人もいるといった有様です。
それでも全員無事通過。ここからさらにフィレンツェへ向かう我々は、国内線ロビーで2時間あまりの待ち合わせとなりました。
三々五々、バール(酒や軽食を売るスタンドレストラン)で水や生ビールを買ったり、ピッツァを食べたりと、皆ユーロでの初の買い物をし、7時半再び集合。国内線の搭乗ゲートに行くと、さすがに日本人の比率がぐんと減っていて、イタリアにいるという実感がわいてきます。
8時過ぎの離陸。とはいっても、日本時間では午前6時過ぎ、体は正直で「徹夜だ、眠たい」と訴えてきます。離陸前から眠り込み、ちょっと目を覚ましたときに眼下に街の明かりを見ましたが、それもつかの間、着陸のショックでやっと目を覚ましたほどでした。伴奏の桃ちゃんも「もうしょぼしょぼしちゃって」と目をこすっていました。
ここフィレンツェ国際空港で現地ガイドの佐藤三子さんと合流、大型バスに乗り込んで15分あまり、市の中心部にあるホテル「クローチェ・ディ・マルタ」についたのは10時近くでした。
車中での佐藤さんのガイドによると、敬虔なキリスト教国イタリアでは、明日6日が「当方3博士が星に導かれ、キリストの生誕を祝いに駆けつけた日」にあたり国民の祝日となっているそうで、クリスマス・イブから明日までは冬休みなのだそうです。
規制があるとかで派手なネオンサインなど全くありませんが、そこここの道路や広場がイルミネーションで飾り付けられ、新年の雰囲気を伝えています。
翌日の予定を確認して早々に解散。みな、重い体を引きずるように部屋に入りました。

1月6日(火) フィレンツェ市内観光
ビュッフェ形式の朝食を終え、午前9時、徒歩で市内観光に出発。まずはホテルのすぐ向かいにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、そして第2次大戦の空爆から免れた唯一の橋、ポンテ・ヴェッキオへと歩きました。
そこら中の建造物が12世紀のものとか、14世紀に再建とか説明されると、石造りの文化の生命力と、それを守ってきた人びとの文化的レベルの高さをひしひしと感じます。
14世紀初頭に創建され、いまだに市庁舎として使われているヴェッキオ宮殿など、その最たるものといえるでしょう。
この市庁舎と棟を連ねてウフッツィ美術館があります。予約した10時からおよそ1時間半、館内を観て歩きました。
階段を上がって回廊にはいると、いきなりアグリッパの胸像があったりして、たしかに美術品の宝庫にいるのだと、ふるえるほどの実感がわきます。しかし、日本人の団体だけで三つ、それに休日とあって館内は大変な混雑で、とくにボッティチェッリやダ・ヴィンチなど著名な作品の部屋は入場制限もされる騒ぎでした。じっくり鑑賞するのはあきらめて、花の大聖堂(ドゥオモ)に向かいます。
3色の大理石を組み合わせた美しい模様に飾られた大聖堂と鐘楼、洗礼堂に囲まれた広場は、祝日の記念式典があるそうで、スピーカーやマイクの準備、片隅には実物大の馬小屋などが用意されていました。
ひとしきり説明を受け解散の予定でしたが、全員佐藤さんの案内で「アカディ」というレストランへ。日本人がオーナーシェフの店で、ワイン飲み放題の歓待を受けました。
午後は自由行動でしたが、何人かはまとまってミケランジェロ広場へ向かい、私を含む10人ほどはそのまま広場に残って、記念式典を見物することにしました。
午後3時前、幼いキリストを抱いたマリアとヨゼフ役が馬小屋に入って座り、少女達のリコーダー演奏が流れた後、華やかなファンファーレをきっかけに、馬に乗った「東方3博士」が、広場の向こうから馬に乗ってやってきます。それに続いて、古式ゆかしい衣装に身を固めた鼓笛隊や貴族の一団、ラッパ手など、色とりどりの旗を先頭に数百人が広場に行進してきました。祝砲が鳴りひびき、挨拶が始まったところで、我々は買い物に行くことにしてその場を離れました。
いったん解散してホテルに戻り、6時半ロビーに再び集まって、この後予定された「人民の家」での交流会に向けて歌の練習をしました。「ベッラ・チャオ」、「フニクリ・フニクラ」そして「ソーラン節」などなど。
7時、バスに乗り込み、フィレンツェ郊外、フェスト・フィオレンティーナ市にある「人民の家」へ。30分ほどの車中でまた「ベッラ・チャオ」や「アバンティ・ポポロ」を歌い、この歌を知っているかとバスの運転手に聞いてみました。
「もちろん知ってる。こういう歌を歌ってくれる人たちを乗せてうれしい。ベルルスコーニ(イタリアの現首相)の歌を歌う人たちだったら降りて歩いてもらうところだ」との返事でした。この運転手さん、ほんとうにうれしかったようで、交流会にも一緒に参加してくれたほどでした。
我々の訪ねたのは、人口45000人ほどというこのフェスト・フィオレンティーナ市に10ある「人民の家」の一つで、地域の文化センターとして自主的に運営されているとのこと。400人の会員が年9ユーロの会費を払って支えているそうです。
出迎えを受けて中にはいると、佐藤さんが壁のポスターを指さして、「日本のミュージシャンが来るからみんな参加して下さいって書いてある」。
「へえ、いつくるんですか?」「みなさんのことですよ」「えっ?」。
1階には小ホールやピッツァハウス、2階には若者たちが自由に使える部屋もあり、3階の画廊は市から補助金を受けて整備されていて、ここで展覧会を開く美術家は、使用料の代わりに必ず作品を1点寄贈することになっている、その作品が大きな財産になっていることなど、説明を興味深く聞いてから夕食会となりました。
ボランティアの方たちが用意して下さった心づくしの夕食をいただき、仕上げにグラッパで乾杯。グラッパとはイタリアの焼酎で、消化を助ける働きもあるそうです。
いよいよ交流会、私が進行役となってまずは「音戸の瀬戸」を歌い、続いてみんなの歌にあわせて「ソーラン節」を踊りました。
「イタリアの方たちも何か」と水を向けても、「いやいや」とニコニコするばかり。「それでは一緒に」ということで「ベッラ・チャオ」、「アバンティ・ポポロ」と続けて歌いました。
続いて、元市議会議員の板垣正男さんが立ち上がり、「オーソレミオ」をイタリア語で朗々と歌いはじめて皆をびっくりさあせ、やんやの喝采を浴びました。一緒に参加された、やはり元市議の斉藤勇さん、「あいつ議会をさぼって歌の練習をしていたんじゃないか?」。
「しゃれこうべの歌」ではイタリア人が1組踊り始め、「カプリ島」では藤井美恵子さんがイタリア人の手をとって踊りました。
「タランテラ」という陽気なリズムのフォークダンスを教えてもらい、ひとしきり踊ったところで、もう時計は10時半を回っていました。室内と建物の前とで記念写真を撮り、急いでホテルへ戻りました。

1月7日(水) ピサへ、そしてローマへ
午前中はオプショナルツアーでピサへ。バスとシャトルバスを乗り継いで大聖堂入り口。露天の並ぶ広場を歩いて城門をくぐると、写真で見慣れた斜塔が目に飛び込んできます。
いまは地下の補強工事も終わって、人数を制限して上まで上れるようになっているそうですが、予約が必要で、我々が上るのは無理とのことでした。
大聖堂、洗礼堂を見学し、列をなした土産物屋でショッピングを楽しんで帰路につきました。
1時過ぎ、いったんホテルに戻り、単独でアカデミア美術館へ行かれた三村佳子さんと合流、再びバスに乗り込んでローマへと向かいます。
北側の城門からフィレンツェを出て高速へ向かう道々、家々の窓に「PEACE」と文字の入った虹色の旗が下げてあるのが目に入りました。米英軍のイラク侵攻と、それに協力出兵したイタリア政府への抗議の意思表示だそうです。
昨夜遅かったのと、時差に馴れきっていない疲れとで、この日はバスで歌うこともなく、6時半ホテル「ノヴァ・ドムス」に入りました。

1月8日(木) ローマ観光、カンツォーネの店へ
9時にホテルを出発、道路が狭いのでマイクロバスでの市内観光です。まず、ヴァチカンのサンピエトロ寺院に向かいます。
10万人が集まれるというサンピエトロ広場。中央の大聖堂から広場を包容するように回廊が伸び、その右手にローマ法王のアパルトメント、広場中央のオベリスクの前には巨大なクリスマスツリーが立ち、その脇にはキリスト生誕の夜を描いたほぼ実寸大のジオラマが作られています。
ヴァチカンがテロの目標の一つだという風評があるせいか、大聖堂入り口の警備は厳重で、金属探知検査も空港並み。我々の前の白人青年は何がいけないのか入場を断られ、憮然とした表情で去っていきました。
世界一の巨大さを誇るこの聖堂、現場監督はラファエロ、奥のドームはミケランジェロ設計というように、ルネッサンス期の芸術家たちの足跡がそこここにちりばめられた芸術の殿堂でもあります。
天井までの高さが40数メートルという堂の中央には、28メートルの法王専用説教壇があり、その右手の壁に、聖ピエトロ(ペテロ)の座像があります。
ピエトロはこの地で逆さ磔にされ、葬られたと伝えられており、多くの信者がこの像の足をなでさすりました。500年にわたってなでさすられてきたその足は、左がわずかに指の跡を残しているものの、右足は靴下をはいたようになめらかな曲線を見せています。
落語「寿限無」に言う「五劫のすり切れず」は、百年に一度ずつ菩薩様が下界に降りたって衣の袖で岩をひと撫でする、その袖がすり切れてなくなるまでを一劫として、その5倍、つまりはあり得ないような長い時間を言うのですが、素手で撫でられてすり減ったブロンズの指先は、それもあり得るかと思わせる、不思議な迫力に満ちていました。
それにしても、フィレンツェの花の大聖堂といい、このサンピエトロ寺院といい、宗教に裏打ちされた「巨大なものへの憧憬」、それを現実の形にしてしまうエネルギーはすごいものだと、強く強く思います。
大聖堂を出ると、サンピエトロ広場の正面に、まっすぐ伸びる通りをはさんで、5階建てビルの3フロア分はありそうな二つの大きな広告スクリーン。左側の画面には「CANON」の文字が見えて、複雑な気分にさせられました。
コロッセオに向かいます。2000年の時を経た建造物と対面するのは、日本ではあり得ない体験、心が弾みます。コロッセオ内部の見学は予定に入っていなかったのですが、皆、せっかくだから入ろうと意見が一致、10ユーロの入場料を払ってスタジアムの最上部から見学しました。
その最上部で、皆が説明を受けている間にひとりでぐるっと一回りしてみました。ちょうどみんなと反対側ぐらいにさしかかったとき、どこからともなく「オーソレミオ」の歌声が聞こえてきました。BGMかと思い耳を澄ますと、1コーラス終わって拍手と歓声、拍手の輪の中心に、板垣さんが立っていました。かつて戦士同士が、あるいは戦士と猛獣が闘いを繰り広げ、スタンドの観客が熱狂してその行方を見守ったコロッセオに、板垣さんの2コーラスめが広がっていきました。
トレビの泉からスペイン階段と歩いて解散、午後は自由行動となります。
私は一人で地下鉄に乗り、鉄道の中心、テルミニ駅へ行ってみることにしましたが、これが大失敗の元。
恥ずかしいので詳しい話は省きますが、行きにウエストポーチの中の財布をすられ、帰りにはポケットに入れっぱなしてあったデジカメをとられてしまいました。行きのスリは子供数人と大人の集団、カメラがないことに気づいたのはホテルに戻ってからという、何とも「のんきなおじさん」でした。
夕刻7時、ホテルロビーに再集合、生演奏の店での夕食です。みな、ちょっとおしゃれにキメてきました。館(たち)さんは午後買った革のジャケットを着込んでいます。
バスで10分ほど行った庶民的な雰囲気のレストラン、我々が1階フロア中央の席について間もなく、ボーカル1人に大小のギター4人という演奏メンバーが登場、ボーカル氏は日本に何度も来ているそうで、自分を「キムタク」、ギタリストを「アケボノ」などと紹介して皆を笑わせます。
「ケ・サラ」「ヴォラーレ」など、日本人にも親しみのある曲が続くと、我々も、もう黙っていられません。
「ベッラ・チャオ」が歌われたのをきっかけに、板垣さんは「オーソレミオ」、斉藤さんが「アバンティ・ポポロ」、中西が「フニクリ・フニクラ」という具合で、他のお客様には申し訳ありませんが、日本人のステージジャックといった感じになりました。
疲れるほどに歌い、山のような料理もかなり残して、満足の帰路につきました。「明日はバスでも歌おうね」「ナポリの街角で歌いたい」などなど、怖いくらい盛り上がってきました。

1月9日(金) 「さあ歌おう」とナポリへ
年金制度の改悪反対と賃上げ要求を掲げた交通ストが始まりました。反対車線、中心部に向かう渋滞を横目に、私たちのバスはナポリへと向かいます。小雨がぱらつき、車窓がかすんで、手近な景色しか見えません。
1時間半ほど走り、パーキングで休憩をした後、車内での歌声タイムが始まりました。
ガイドの佐藤さんのリクエストは「青い空は」と「たんぽぽ」、飯塚さんは「夢見る想い」「サントワマミー」で美声を響かせ、「雪の降る街を」「仕事の歌」「灯」と、次々リクエストが寄せられます。
あっという間に時は過ぎ、ナポリ市内に入ったところで歌声タイムは終了、バスは昼食をとるピッツァハウスに到着。
ここはナポリ随一のピッツァの名店だそうで、奥の調理台では職人が次から次へと台をのばし、別の職人が大きな木ベラで土釜の中へ入れていきます。
各自に大きめのピッツァが一枚ずつ、次にライスコロッケの皿が出、そしてデザート。イタリア人はよく食べるのです。
午後はバスで市内観光。雨がやまないので、もっぱらバスからの観光になりました。
高級住宅地ポジリポ地区の高台からナポリ湾を見下ろし、サンタルチア海岸では海洋民族ノルマン人のつくった「タマゴ城」を眺めたり、いくつかの名所旧跡をまわってホテル「メディタラネオ」へ。
夕食まで時間があるので、近辺を歩いて散策。途中で佐藤さんも加わって、小一時間歩きました。
今夜の夕食もカンツォーネの歌えるレストラン。現地ガイドのジョバンニ氏に伴われて、「ギリシャ時代のメインストリート」というところでバスを降り、当時の城壁や古い教会などを観ながら歩きました。
ギリシャ時代に「ネオ・ポリス」新しい町としてつくられたのがナポリの起源なのですが、それにしても「この建物は新しいものです。18世紀につくられました」には参ってしまいます。
到着したレストランは地下1階。4つのコーナーに別れていて、すでに二つのコーナーに日本人グループが入っていました。
席について間もなく、生ビールが届いたと同時ぐらいに演奏が始まりました。
中年の女性が歌い、男性が二人、ギターとパーカッションで伴奏します。「フニクリ・フニクラ」「イテブリア・バザール」など、日本でもなじみの曲が続きます。
私たちはやんやの喝采を送るのですが、他の日本人グループはそれはそれは物静か。「お嬢様たちはノリが悪いわねえ」とわがともしび旅行団の面々は言いますが、こちらのノリが良すぎるのかとも思われます。
2曲歌ってはちょっと間をおき、また2曲。3度目に入ったところで女性歌手が「そのアコーディオンは誰が弾くのか?」と尋ねてきました。「待ってました」とばかり、桃ちゃんの伴奏で「サンタルチア」を全員合唱。すると女性歌手、「ちょっと貸して」とアコを手にするや、初めて耳にする曲でしたが何とも楽しい弾き語りを聴かせてくれました。
板垣さんも立ち上がり、得意の「オーソレミオ」を歌います。
他の日本人グループは先に引き上げて、客は私たちだけ。店のスタッフが「ナカニシという歌手の歌を聴かせなければデザートは出さない」といっていると言われ、「じゃあみんなで交流しましょう」と、奥まったパーティ用(?)のスペースに移動しました。
「遙かなるサンタルチア」「南部牛追い歌」と歌ったところで、女性歌手と伴奏のふたりも合流、彼女は「さくら」を勉強したことがあるとかで、みんなで合唱。「フニクリ・フニクラ」「ベッラ・チャオ」も続けました。「踊りながら歌える曲もあるのよ」と彼女の指導で歌にあわせて踊り、最後に「イタリアで芝居の終わりに必ず歌われる愛の歌」を彼女が情感たっぷりに歌い上げて、楽しい交流のひとときを終えました。
パーカッションの男性、「みなさんとても感じの良い方たちで、一緒に歌えてとても楽しかった」。
席に戻り、リキュールのたっぷりかかったケーキをいただいて帰路につきました。

1月10日(土) ソレント、ポンペイへ
雨も上がり、青空が広がりはじめました。ソレント半島への小旅行にはうってつけ。サンタルチア海岸からは遠くカプリ島の影がのぞめます。昨日はもやの中に隠れていたベスビオ山も、くっきりと姿を見せています。
そのベスビオ山の溶岩を切り分けてつくられた高速道路を、バスは南へ走ります。
海沿いの急斜面にはオリーブやオレンジ、レモンなどの果樹が植えられ、その間を縫うように細い道が続きます。
その美しさから「人魚がつくった町」といわれるソレントは、街路樹がオレンジ。どの木もたくさんの実をつけていて、町全体がカラフルな感じでした。ポンペイへ戻るバスの中では「帰れソレントへ」はもちろん、「みかんの花咲く丘」を気分良く歌ったりしました。ポンペイが近づいてきた頃、ジョバンニが言いました、「みなさん、ポンペイの遺跡の中にいい場所があります。小さなコンサートをやりましょう」。
ポンペイへ戻って昼食、そしてポンペイの遺跡見学です。
2000年の間灰に埋もれ、灰によってその姿を守られてきたポンペイ。それは、当時の庶民の暮らしをそのまま偲ばせる、他の遺跡とは全く異なる顔を持った遺跡でした。街角の喫茶店のカウンターやパン屋の釜、選挙候補者の名を記した壁書きなど、人間の暮らしはこの2000年、それほど変わっていないのだと思わされました。
ひとしきり歩いて着いた野外劇場。ステージ前の平地から周りを囲んだ客席を見上げながら、ジョバンニが「さあ、ここでうたいましょう」。
板垣さんを中心に「帰れソレントへ」そして「ベッラ・チャオ」「さくら」などを歌いました。客席の上の通路には観光客が立ち止まって、何事かと私たちをのぞき込んでいます。拍手も聞こえます。
ここはまああっさりとすませ、ジョバンニと佐藤さんのガイドを受けながらさらに奥へ進みます。
着いたところは「アポロンの神殿」。柵に囲まれ、当時のままの柱や壁を残し神殿の向こうには、青空の下ベスビオ山がその偉容を見せています。最高のシチュエーション。「よし、歌おう」と言うことで、「フニクリ・フニクラ」を空に向けて思いきり歌いました。
三々五々、歌声を聞きつけた人たちが集まりはじめました。「サンタルチア」「ベッラ・チャオ」など、一緒に歌うイタリア人もたくさんいます。気をよくして「上を向いてあるこう」を歌うと、知っているのかいないのか、イタリア語でもぞもぞ参加している人もいるようです。最初から寄ってきて一緒に歌ってくれたグループは、ヴェネチアの方だそうで、「ゴンドリ、ゴンドラ、ゴンドリ・・・・」と口ずさむと、とてもうれしそうでした。
「ベッラ・ヴォーチェ」(美しい声だ)のほめ言葉をいただき、一緒に記念撮影をするなどして、この場はお開き。
参加者のひとりは「こんな野外でイタリア人と一緒に歌ったなんて大感激。一生の思い出になります」と喜んで下さいました。
バスに戻り、途中カメオ(貝にレリーフを刻み込んだ芸術品)の工房によってホテルへ戻りました。今夜の夕食はもう、お別れパーティです。
7時過ぎ、徒歩で5分ほどのレストランへ移動、個室だから」歌っても大丈夫といわれていたのですが、実際には階段が吹き抜けになった2階の席で、3つに別れた私たちのテーブルの横には小さなテーブルがいくつもあり、あまり落ち着いて歌える雰囲気ではありませんでした。
それでも歌わずにはいられない私たち。中西がオペラアリア「人知れぬ涙」、板垣さんはカルメンから「花の歌」、飯塚さんは「ナポリは恋人」と「なつかしきボルガ」などを歌いました。ところが、そのころから店が混み始めました。小さなテーブルも全部埋まって、最初は私たちの歌に拍手をしてくれたナポリっ子たちも、食事に忙しそう。気分はちょっと中途半端ですが、ここは引き上げようと決めました。
外へ出てみると、今日は土曜の夜、店の前には行列ができているし、歩道をたくさんの人たちがそぞろ歩いています。
何メートルか先に小さな噴水があり、そこは歩道が広がって、ベンチなども置いてありました。「よし、ここでもやろう」と衆議一決、ベンチにコートや荷物を置いて「フニクリ・フニクラ」から歌いはじめました。たちまちあたりは黒山の人だかり。一緒に歌う人、手拍子をする人、携帯のカメラで撮影する人。もう終わろうかと上着を着かけると誰かが「中西さん、日本の歌も!」。
「わかりました」と上着を脱ぐと、とたんに聴衆から拍手がわきました。「ソーラン節」を歌い踊り、おわかれにと「アバンティ・ポポロ」「ベッラ・チャオ」をひときわ声高に歌って、「街角ゲリラ歌声」の終了です。さすがにちょっと疲れました。「これがイタリアでの歌い納めだろう」と思いながらホテルに戻りましたが、実はそうではありませんでした。

1月11日(日) 日本へ
快晴。ナポリ湾が朝日に輝き、その右手にカプリ島がくっきりと浮かんでいます。
ナポリからミラノ経由で成田へ向かいます。
ナポリ空港へはバスで15分ほど。車中で佐藤さんからひと言、「久しぶりに、昔歌った歌を聴いて、自分でも歌って、自分にもそんな過去があったことを思い出し、人生を考えさせられました。楽しい日々でした。これでいったんお別れになりますが、終わりではなく、新しい出会いの始まりであるといいと思います。またお会いしましょう」と、胸の熱くなるご挨拶をいただきました。
空港に着き、チェックインや荷物預け、航空券も受け取って手続きはすべて終わり、金属探知器のゲートをくぐれば佐藤さんとはお別れになります。
「どうしようか」「やっぱり、歌おう」と、伴奏はなし、小さめの声で「ベッラ・チャオ」を歌いはじめました。すると、通行人が幾組か振り返る中で、一人のおばあちゃんが近寄ってきて、一緒に大きな声で歌いはじめたのです。思わず皆、大声で歌い続けてしまいました。終わるとそのおばあちゃん、「ケッベラコーザ」と催促します。「オーソレミオ」を歌えというのです。嫌いじゃないから、つい歌ってしまいました。遠巻きにたくさんの人が歌を聴いています。金属探知器の係員も大勢外に出てきて、何事かとこちらを見ています。
歌い終わるとそのおばあちゃん、「ナ・ポ・リ!、ナ・ポ・リ!」とシュプレヒコール、そして私に「コリアンか、ジャポネか?」と聞くので「ジャポネ」と答えると、「ジャ・ポ・ネ!、ジャ・ポ・ネ!」。抱擁を交わしてそのおばあちゃんとお別れし、佐藤さんとも固い握手をして待合いロビーへ入りました。
快晴の中、ミラノへの飛行は実に快適でした。右に雪をいただくアペニン山脈、左の地中海にはやがてコルシカ島が姿を見せ、ミラノへ向いて飛行機が大きく右に旋回すると、さらに高く、雪に包まれた峻厳な峰々。アルプス山脈です。
時差疲れがとれるにつれて歌声の高まったイタリアツアーも、これで終わりです。ミラノから飛び立つとき、久しぶりに手にした日本の新聞。その一面トップは、自衛隊のイラクへの出発を報じていました。

こうして、あっという間のイタリアツアーが無事に終わりました。
私がスリの被害にあったほか、ひとり道路で転倒されてケガをされた方がいらっしゃいましたが、なんとイタリアは海外の旅行者も医療費が無料とのことで、思わぬ福祉の一面も見てきました。
最後に、旅行手配をして頂いた富士国際旅行社の皆様、添乗員の出島邦宏さん、現地ガイドの佐藤三子さんはじめガイドの方々、そして何よりも、ご参加頂いた17名の皆様と現地参加のお二人に心からのお礼を申し上げたいと思います。シニョーリ、シニョーラ、グラーツィエ!

 

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